晴ラン雨読&酔灯夜話

晴れれば思い通りの場所を走り、雨が降れば静かに書物を繰る。そして宵には酒を飲みとりとめもないことを語る。

<晴ラン雨読>岸和田城

f:id:palakona:20200531055345j:plain

2020年5月28日(木)15:00-18:05 23.0キロ 累積上り175m 累積下り175m

和泉中央⇒久米田池⇒岸和田城⇒包近⇒和泉中央

 初夏の晴天のさわやかな青空の下、岸和田城に向けてラン。日差しはとてもきついが乾燥しているせいか日陰ではひんやりして心地よい。久米田池では池の青と和泉山地の山々の緑がくっきりとコントラストが映えてきれいだった。住宅地、市街地を抜けて岸和田城へ、堀からみる岸和田城は立派で堂々としていた。ふもとにはだんじりが宮入する岸城神社、ことしはコロナの影響で祭りが開催できるか?気が気でないことであろう。岸和田城からの帰路は山手から包近に抜ける道を選択。この道あまり歩道が整備されていなく、またダンプなどの大型車両の通行も多く、ちょっとランするにはしんどいコースであった。さすがに大汗かいてのども相当乾いた。ランシャツは真夏と違って走り終えるころには適当に乾いていた。

 

f:id:palakona:20200531055407j:plain

久米田池

 久米田寺の南東にある大阪府最大の水面積を有する池。大阪府岸和田市にあり、池尻町・岡山町にまたがっている。

久米田池の外周は、三方を自然地形の台地に囲まれていて、残りの一方(久米田公園~久米田寺山門側)に堤防を構築して、作られた灌漑ため池である。久米田池の中央部には、旧春木川の川床が見られ、この川をせき止めることにより、ため池として構築された[1]。「久米田」の名称には「八木」から「粂」に転じたとする説と、この池を指す「籠田(込田)」(田に籠めるもの = 水)から転じたとする説がある。(ウィキペディアより)

 

f:id:palakona:20200531055416j:plain

f:id:palakona:20200531055426j:plain

岸和田城

 伝承では、建武新政期に楠木正成の一族、和田高家が築いたといわれています。 天正13(1585)年、羽柴秀吉紀州根来寺討滅後、叔父小出秀政を城主とし、秀政に よって城郭整備され、天守閣もこの時に築かれました。小出秀政・吉政・吉英、松平(松井)康重・康映をへて寛永17(1640)年、岡部宣勝が入城(6万石、のち5万3千石)。以後、明治維新まで岡部氏13代が岸和田藩を統治しました。 天守閣は文政10(1827)年に落雷で焼失、維新期には櫓・門など城郭施設を自ら破壊したため、近世以前の構造物は堀と石垣以外には残存していません。 現天守閣は、昭和29年に建造された3層3階の天守です。本来は5 層天守であったことが絵図などで確認されています。城跡は昭和18年大阪府指定史跡となりました。 平成19年4月1日からは、観光施設として岸和田城ウエディングをはじめ、多聞櫓・隅櫓をギャラリーや各種イベントに使用するなど、観光振興の拠点として活用しています。(岸和田市公式HPより)

<晴ラン雨読>美多彌神社

f:id:palakona:20200524072929j:plain

2020年5月24日(日)5:10-6:40 11.7キロ 累積上り150m 累積下り150m

和泉中央⇒鴨谷公園⇒美多彌神社⇒赤坂台⇒光明池緑道⇒和泉中央

 早朝ランはどうしても走りはじめは鉛の様に体が重い。今朝もそんな感じで和泉中央から光明池にたどり着くまで超スローペース。鴨谷公園に入ったころから調子が戻り、緑に囲まれて快適なランモード。鴨谷を抜けたあたりに鎮座まします美多彌神社に参拝。神社は早朝にいい気、オーラが満ち溢れているとか、こころも清々しくなり今度は泉北高速、泉北一号線を高架橋を渡って赤坂台方面へ。ここはとても閑静な住宅街でまだ街はしんと静まり返っていた。しかし光明池緑道に入るとウォーカーが多く歩いており、早朝の清々しい散歩を楽しんでいた。

 

f:id:palakona:20200524072949j:plain

美多彌神社

 美多彌神社は延喜五年(905年)醍醐天皇の命により藤原時平らが編纂を始め延長五年(927年)に完成した『延喜式』の九巻・十巻『延喜式神名帳』にその名を連ねる式内社であり、和田郷(にぎたのさと・令制国和泉国北部に由来する地域名所で現在の大阪府南部中央に位置する)の郷氏神として崇められ、御祭神には中臣氏(藤原氏)の祖先神である、天児屋根命(あめのこやねのみこと)を奉祀し、明治時代の神社合祀により、須佐之男命・菅原道真公・天之水分大神厳島神・大国主大神熊野大神琴平大神八幡大神を合わせ祀っております。
当神社の社名の由来は平安時代初期の弘仁六年(815年)に、嵯峨天皇の命により編纂された古代氏族名鑑『新撰姓氏録』『和泉国神別条』に記載されている『民直(みたみのあたい)』からとされております。民直氏族は「天児屋根命の後裔とされ、民(みたみ)は美多彌(みたみ)と訓を正す」と記されています。天児屋根命を祭神とし、社名の起こる由縁であります。
民直小鮪(みたみのあたいおしび=生没年不明)は、飛鳥時代の人物で、壬申の乱(672年)の時、大海人皇子天武天皇)側につき、河内から倭(大和)に来る敵を防いで連戦しました。民直小鮪はこの後も大友吹負のもとで戦ったと考えられますが、その様子は日本書紀には現れません。また民直氏族は天武天皇側の人物史に民直大史なる人物と記されています。
またその神奈備(かんなび=神霊の鎮まる場所で特に神聖な森や山を指す。古代では常設の社殿は存在せず祭場となる特定の場所が聖域として区別されていた)は神聖で立派な木々が多く繁っていた事から『王森』と呼ばれ、後醍醐天皇の御代には三万坪にもわたる広大な境内を持ち社頭輪奐(建物の壮大華麗な様)を極めたる神社であったと言われています。(公式HPより)

 

f:id:palakona:20200524073002j:plain

光明池緑道

<晴ラン雨読>松尾寺公園

f:id:palakona:20200522213142j:plain

2020年5月20日(水)17:25-18:40 8.7キロ 累積上り115m 累積下り115m

和泉中央⇒のぞみ野⇒かぐらざき緑道⇒めぐりえシティ⇒松尾寺公園⇒緑丘⇒和泉中央

 この日は風の冷たい日で走っていても汗もあまりかかず涼しく走れた。かぐらざき緑道を通り、和泉市でも開発が進んでいる山手の方面、瀟洒な住宅が並ぶいわゆるメグリエシティを抜けてほどなく行くと、自然の風景が色濃く残っている松尾寺公園に着く。新興の住宅地と里山を思わせる自然の同居が素晴らしいと思えた。

 

f:id:palakona:20200522213208j:plain

f:id:palakona:20200522213200j:plain

松尾寺公園

<晴ラン雨読>内田春日神社

f:id:palakona:20200517164358j:plain

2020年5月17日(日) 5:20-6:30 7.2キロ 累積上り75m 累積下り75m

和泉中央⇒のぞみ野⇒水学の道⇒内田春日神社⇒かぐらざき緑道⇒はつが野⇒和泉中央

 霧雨のなかの早朝ラン。桃山学院大学の脇にある遊歩道(水学の道)を通り、住宅の路地を抜けて内田春日神社へ。ここは戎さんもお祭りされており、木に戎さんのお顔がかけられており、ちょっとおどろおどろしい雰囲気でもあった。内田町からかぐらざき緑道を通ってのぞみ野に出て、ここから和泉中央に戻った。霧雨なので体が濡れるのは苦にはならないが、メガネに水滴がすぐについて見えにくいのがちょっと困った。さすがにウォーカーやランニングしている人は少なめではあった。

 

f:id:palakona:20200517164415j:plain

水学の道

 

f:id:palakona:20200517164424j:plain

f:id:palakona:20200517164437j:plain

内田春日神

 

<晴ラン雨読>かぐらざき緑道

f:id:palakona:20200516053041j:plain

2020年5月14日(木)17:45-18:45 6.5キロ 累積上り50m 累積下り50m

和泉中央⇒のぞみ野⇒かくらざき緑道⇒はつが野⇒和泉中央

 夕暮れやや涼しくなってラン。桃山学院大学界隈ののぞみ野から住宅街を縫うように敷かれている、かぐらざき緑道を進む。ここは格好の散歩、ジョグ道である。緑道を出て最近とみに住宅が増えたはつが野に、はつが野から和泉中央道を通って和泉中央へと戻る。コロナ出口戦略の「大阪モデル」達成のせいか、店も再開し始め徐々にもとにもどりつつある感じであった。

 

f:id:palakona:20200516053104j:plain

f:id:palakona:20200516053114j:plain

f:id:palakona:20200516053123j:plain

かぐらざき緑道

 かぐらざき公園は、桃山大学の近くにある美しい景観が魅力の公園です。
園内の南側は自然林が多く残されているので、お散歩コースに最適です。
公園の北側には大きなアスレッチク遊具や砂場、小さな滑り台などが設置されていて、
年齢を問わず、様々な楽しみ方ができます。(yahooロコより)

<晴ラン雨読>池上曽根遺跡

f:id:palakona:20200514083540j:plain

2020年5月12日(火)16:10-17:50 13.8K 累積上り95m 累積下り95m

和泉中央和泉府中⇒池上曽根遺跡⇒信太山和泉中央

 五月晴れの夕暮れランは和泉市にある弥生時代の遺構を公園にした「池上曽根遺跡公園」まで。コロナの影響でマスクラン、BUFFランが定着しつつあるが、山中教授も自身のブログで、皇居や大阪城のような密集してランする場合の注意事項との注釈を書かれていた。そにためソロで通行人がいない場所でのランでは感染リスクは無いと判断し、常時のマスクやBUFF着用はやめた。ただしマイルールとして、通行人とすれ違う時には手拭いで鼻と口をすばやく覆うこととした。池上曽根遺跡は広々とした公園で多くの愛犬家が集っていた。思うに古代の海岸線はかなり内陸まで迫っており、当時の弥生人は漁労と農業でそこそこ豊かな生活を享受していたのではないかと思えた。

 

f:id:palakona:20200514083558j:plain

f:id:palakona:20200514083607j:plain

f:id:palakona:20200514083618j:plain

池上曽根遺跡

 池上曽根遺跡は、弥生時代中期頃の環濠集落です。広さは約60万平方メートルで、環濠の内側に、掘立柱建物群があり、中央には大型の掘立柱建物があります。花粉などの自然遺物の分析により、アカガシなどの広葉樹の森や、アシ、ススキなどの湿地草原が遺跡周辺に広がっていといたと思われます。

後方には大阪湾がみえます。二千年前の大阪湾は、池上曽根遺跡のわずか2キロメートル後方にまで迫っていました。遺跡の東側を横切って走る大きな道路が、第二阪和国道(現26号線)です。弥生時代にはその道路の手前と、遺跡の奥に河川がありました。
手前の河川では堰が発見され、遺跡の北側には水田が拡がっていたと考えられます。ただし、池上曽根遺跡が最も栄えた「弥生時代中期後半」には河川の流れは止まっていたようです。この二本の河川にはさまれ、二条の環濠が、集落をとりまいています。その外側には方形周溝墓(弥生時代のお墓)があったようです。池上曽根遺跡では、お墓は集落の外側に造る習慣があったのかもしれません。
また、環濠のまわりには竪穴住居が密集していました。竪穴住居には、一時期に「何棟存在」し、「何人の人」がいたのか人口をめぐる解釈は様々です。

池上曽根遺跡は平野部に位置していますが、二千年前には河川などの影響もあり、今よりもっと起伏に富んだ地形をしていました。
信太山丘陵からも2キロメートルと近く、海と川と山に挟まれた豊かな土地であったようです

泉大津市HPより)

<晴ラン雨読>梨本池

f:id:palakona:20200512082344j:plain

2020年5月10日(日)15:10-17:00 10.0キロ 累積上り125m 累積下り125m

和泉中央⇒松尾寺⇒梨本池⇒青葉台和泉中央

 梅雨を思わせる蒸し暑い日の夕暮れラン。和泉中央から閑静な住宅地の緑ヶ丘から内田を経由して松尾寺方面へ、松尾寺の手前に大きな楠木がそうとうな樹齢でしめ縄もされておりまさに神木然としてたたづんでいた。そこから松尾寺、松尾寺公園と走り、遊歩道をゆっくり走り梨本池に出くわす。梨本池はやや高台にあり、ここから和泉中央方面も一望できる。この日はさすがに走っていて暑く、そろそろ本格的に熱中症や脱水対策してランしなければならない季節となったことを実感。

 

f:id:palakona:20200512082700j:plain

松尾寺大楠木

 

f:id:palakona:20200512082651j:plain

松尾寺  

672年天武天皇元年)に役小角が当地で7日間修法し、霊木を得て如意輪観音を彫り、小堂を建てて安置したことに始まる。その後、泰澄が中興し、熊野吉野白山権現勧進した。

平安時代には当寺に住んでいた河内国の僧尋祐にまつわる奇瑞が『日本往生極楽記』や『今昔物語』などに記されており、鎌倉時代には源頼朝が祈祷所として保護している。

松尾寺の最盛期は、南北朝時代から室町時代であり、寺領7000石、寺坊308名、僧兵は数千人を数えたという言い伝えが残っているが、それを裏付ける文書等は現在のところ発見されていない。また、南朝との関係が深く、1336年延元元年)後醍醐天皇綸旨によって祈祷所となり、以後も南朝から度々祈祷を命じられていたという。南北朝統一後は足利義満ほか代々の将軍も祈願所として、寺領安堵を行ったとされる。下って、織田信長1577年天正5年)禁制を下して松尾寺の保護を一旦は約束したのだが、織田信長は、4年後の1581年天正9年)紀州高野山(現在の和歌山県伊都郡高野町大字高野山)攻めの際に松尾寺も攻撃し、松尾寺を含む阿弥陀山諸堂を丸ごと焼き払ってしまった。現在の松尾寺は、その後、豊臣秀頼の寄進などにより再建されたものである。(ウィキペディアより)

 

f:id:palakona:20200512082639j:plain

松尾寺公園遊歩道

 

f:id:palakona:20200512082708j:plain

梨本池