晴ラン雨読&酔灯夜話

晴れれば思い通りの場所を走り、雨が降れば静かに書物を繰る。そして宵には酒を飲みとりとめもないことを語る。

<晴ラン雨読>岸和田城

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2020年5月28日(木)15:00-18:05 23.0キロ 累積上り175m 累積下り175m

和泉中央⇒久米田池⇒岸和田城⇒包近⇒和泉中央

 初夏の晴天のさわやかな青空の下、岸和田城に向けてラン。日差しはとてもきついが乾燥しているせいか日陰ではひんやりして心地よい。久米田池では池の青と和泉山地の山々の緑がくっきりとコントラストが映えてきれいだった。住宅地、市街地を抜けて岸和田城へ、堀からみる岸和田城は立派で堂々としていた。ふもとにはだんじりが宮入する岸城神社、ことしはコロナの影響で祭りが開催できるか?気が気でないことであろう。岸和田城からの帰路は山手から包近に抜ける道を選択。この道あまり歩道が整備されていなく、またダンプなどの大型車両の通行も多く、ちょっとランするにはしんどいコースであった。さすがに大汗かいてのども相当乾いた。ランシャツは真夏と違って走り終えるころには適当に乾いていた。

 

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久米田池

 久米田寺の南東にある大阪府最大の水面積を有する池。大阪府岸和田市にあり、池尻町・岡山町にまたがっている。

久米田池の外周は、三方を自然地形の台地に囲まれていて、残りの一方(久米田公園~久米田寺山門側)に堤防を構築して、作られた灌漑ため池である。久米田池の中央部には、旧春木川の川床が見られ、この川をせき止めることにより、ため池として構築された[1]。「久米田」の名称には「八木」から「粂」に転じたとする説と、この池を指す「籠田(込田)」(田に籠めるもの = 水)から転じたとする説がある。(ウィキペディアより)

 

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岸和田城

 伝承では、建武新政期に楠木正成の一族、和田高家が築いたといわれています。 天正13(1585)年、羽柴秀吉紀州根来寺討滅後、叔父小出秀政を城主とし、秀政に よって城郭整備され、天守閣もこの時に築かれました。小出秀政・吉政・吉英、松平(松井)康重・康映をへて寛永17(1640)年、岡部宣勝が入城(6万石、のち5万3千石)。以後、明治維新まで岡部氏13代が岸和田藩を統治しました。 天守閣は文政10(1827)年に落雷で焼失、維新期には櫓・門など城郭施設を自ら破壊したため、近世以前の構造物は堀と石垣以外には残存していません。 現天守閣は、昭和29年に建造された3層3階の天守です。本来は5 層天守であったことが絵図などで確認されています。城跡は昭和18年大阪府指定史跡となりました。 平成19年4月1日からは、観光施設として岸和田城ウエディングをはじめ、多聞櫓・隅櫓をギャラリーや各種イベントに使用するなど、観光振興の拠点として活用しています。(岸和田市公式HPより)