晴ラン雨読&酔灯夜話

晴れれば思い通りの場所を走り、雨が降れば静かに書物を繰る。そして宵には酒を飲みとりとめもないことを語る。

<晴ラン雨読>梨本池

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2020年5月10日(日)15:10-17:00 10.0キロ 累積上り125m 累積下り125m

和泉中央⇒松尾寺⇒梨本池⇒青葉台和泉中央

 梅雨を思わせる蒸し暑い日の夕暮れラン。和泉中央から閑静な住宅地の緑ヶ丘から内田を経由して松尾寺方面へ、松尾寺の手前に大きな楠木がそうとうな樹齢でしめ縄もされておりまさに神木然としてたたづんでいた。そこから松尾寺、松尾寺公園と走り、遊歩道をゆっくり走り梨本池に出くわす。梨本池はやや高台にあり、ここから和泉中央方面も一望できる。この日はさすがに走っていて暑く、そろそろ本格的に熱中症や脱水対策してランしなければならない季節となったことを実感。

 

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松尾寺大楠木

 

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松尾寺  

672年天武天皇元年)に役小角が当地で7日間修法し、霊木を得て如意輪観音を彫り、小堂を建てて安置したことに始まる。その後、泰澄が中興し、熊野吉野白山権現勧進した。

平安時代には当寺に住んでいた河内国の僧尋祐にまつわる奇瑞が『日本往生極楽記』や『今昔物語』などに記されており、鎌倉時代には源頼朝が祈祷所として保護している。

松尾寺の最盛期は、南北朝時代から室町時代であり、寺領7000石、寺坊308名、僧兵は数千人を数えたという言い伝えが残っているが、それを裏付ける文書等は現在のところ発見されていない。また、南朝との関係が深く、1336年延元元年)後醍醐天皇綸旨によって祈祷所となり、以後も南朝から度々祈祷を命じられていたという。南北朝統一後は足利義満ほか代々の将軍も祈願所として、寺領安堵を行ったとされる。下って、織田信長1577年天正5年)禁制を下して松尾寺の保護を一旦は約束したのだが、織田信長は、4年後の1581年天正9年)紀州高野山(現在の和歌山県伊都郡高野町大字高野山)攻めの際に松尾寺も攻撃し、松尾寺を含む阿弥陀山諸堂を丸ごと焼き払ってしまった。現在の松尾寺は、その後、豊臣秀頼の寄進などにより再建されたものである。(ウィキペディアより)

 

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松尾寺公園遊歩道

 

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梨本池