<晴ラン雨読>池上曽根遺跡
2020年5月12日(火)16:10-17:50 13.8K 累積上り95m 累積下り95m
五月晴れの夕暮れランは和泉市にある弥生時代の遺構を公園にした「池上曽根遺跡公園」まで。コロナの影響でマスクラン、BUFFランが定着しつつあるが、山中教授も自身のブログで、皇居や大阪城のような密集してランする場合の注意事項との注釈を書かれていた。そにためソロで通行人がいない場所でのランでは感染リスクは無いと判断し、常時のマスクやBUFF着用はやめた。ただしマイルールとして、通行人とすれ違う時には手拭いで鼻と口をすばやく覆うこととした。池上曽根遺跡は広々とした公園で多くの愛犬家が集っていた。思うに古代の海岸線はかなり内陸まで迫っており、当時の弥生人は漁労と農業でそこそこ豊かな生活を享受していたのではないかと思えた。
池上曽根遺跡
池上曽根遺跡は、弥生時代中期頃の環濠集落です。広さは約60万平方メートルで、環濠の内側に、掘立柱建物群があり、中央には大型の掘立柱建物があります。花粉などの自然遺物の分析により、アカガシなどの広葉樹の森や、アシ、ススキなどの湿地草原が遺跡周辺に広がっていといたと思われます。
後方には大阪湾がみえます。二千年前の大阪湾は、池上曽根遺跡のわずか2キロメートル後方にまで迫っていました。遺跡の東側を横切って走る大きな道路が、第二阪和国道(現26号線)です。弥生時代にはその道路の手前と、遺跡の奥に河川がありました。
手前の河川では堰が発見され、遺跡の北側には水田が拡がっていたと考えられます。ただし、池上曽根遺跡が最も栄えた「弥生時代中期後半」には河川の流れは止まっていたようです。この二本の河川にはさまれ、二条の環濠が、集落をとりまいています。その外側には方形周溝墓(弥生時代のお墓)があったようです。池上曽根遺跡では、お墓は集落の外側に造る習慣があったのかもしれません。
また、環濠のまわりには竪穴住居が密集していました。竪穴住居には、一時期に「何棟存在」し、「何人の人」がいたのか人口をめぐる解釈は様々です。
池上曽根遺跡は平野部に位置していますが、二千年前には河川などの影響もあり、今よりもっと起伏に富んだ地形をしていました。
信太山丘陵からも2キロメートルと近く、海と川と山に挟まれた豊かな土地であったようです
(泉大津市HPより)