<晴ラン雨読>松尾寺ラン
2020年4月21日(火)17:20-18:20
和泉中央⇒松尾寺⇒和泉中央 72.0キロ 累積上り70m 累積下り70m
テレワークで自宅仕事を一段落させ気晴らしに外を走った。ランニング時もコロナ感染に気を配るべく、京都大学の山中教授の呼びかけに応じて、口と鼻を覆ってラン。はじめはちょっと違和感もあったが慣れるとそうでもなく、他に走っているランナーも同じようにしていて、ちょっと安心。和泉市は山手に向かうほど開発が進む新興住宅で、住宅街が昔からの古刹で有名な松尾寺のほんの手前までせまっていた。おそらく10年少し前までは田舎の里風景が広がる中にあった寺であったろうといった趣を少し残していた。
松尾寺
672年(天武天皇元年)に役小角が当地で7日間修法し、霊木を得て如意輪観音を彫り、小堂を建てて安置したことに始まる。その後、泰澄が中興し、熊野、吉野、白山の権現を勧進した。
平安時代には当寺に住んでいた河内国の僧尋祐にまつわる奇瑞が『日本往生極楽記』や『今昔物語』などに記されており、鎌倉時代には源頼朝が祈祷所として保護している。
松尾寺の最盛期は、南北朝時代から室町時代であり、寺領7000石、寺坊308名、僧兵は数千人を数えたという言い伝えが残っているが、それを裏付ける文書等は現在のところ発見されていない。また、南朝との関係が深く、1336年(延元元年)後醍醐天皇綸旨によって祈祷所となり、以後も南朝から度々祈祷を命じられていたという。南北朝統一後は足利義満ほか代々の将軍も祈願所として、寺領安堵を行ったとされる。下って、織田信長も1577年(天正5年)禁制を下して松尾寺の保護を一旦は約束したのだが、織田信長は、4年後の1581年(天正9年)紀州高野山(現在の和歌山県伊都郡高野町大字高野山)攻めの際に松尾寺も攻撃し、松尾寺を含む阿弥陀山諸堂を丸ごと焼き払ってしまった。